2007年03月08日

謎の遺跡紀行『孫文と蒋介石の碑』(九)       〓孫文と蒋介石を支えた津軽の武人〓

 歴史には「もしも」がないと言うが、仮に、この分轄統治案が戦勝国で採択されたとしたら、北海道・東北はロシア領土になっており、私たちは恐らく辛酸をなめ尽くしていただろう。
 それは、現在のチェチェン紛争を見れば想像できる。大戦後、ロシア領となったチェチェン共和国は、スターリンにより国民のほとんどがシベリアに強制移住させられ、気候の良いこの国へは白系ロシア人が住み着いた。その数十年後、祖国に帰っても良いということになり帰郷したところ、すでに、その土地にはロシア人が住んでいた。これが紛争の始まりであった。チェチェン人の兵士は、「今後二度とロシアの奴隷にならない。たとえ民族が滅び去ろうとも!」と誓い合っているという。まさに、ロシア人に対する恨み、怨念を含んだ凄絶な言葉である。最近の国際社会では民族独立紛争からテロ活動にすり替えられているが、根本にあるのは民族の独立である。
これは、もし日本分轄統治案が採択されたら、日本人がたどる運命でもあったと思う。
 台湾政府が山田家の墓を礼拝する以上に、我々日本人は蒋介石に感謝しなければならないと思う。
 山田純三郎は、己のことも己が係わった事も手柄も一切語らず、知らしめず、記録も残さず、己の役割を誠実に行い、舞台の幕が降りるとためらわず去っていった。まさに、武人(もののふ)に相応しい生き様である。
霊峰・岩木山、「名山名士を出だす」、まさに、純三郎は岩木山の寵児ではなかったかと思われてならない。(完)
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2007年03月05日

謎の遺跡紀行『孫文と蒋介石の碑』(八)       〓孫文と蒋介石を支えた津軽の武人〓

 もう一つは、国として山田家の墓を礼拝していたということは、中華民国台湾の建国に深く関った人物であったか、あるいは、国家として大きな恩義があったからと見なければならないと思う。
 歴史的には、毛沢東の共産軍に敗れた蒋介石は、国民党の敗残兵を引き連れて台湾に逃れ、そして建国したと言われている。
 問題は、国として継続反復し礼拝していたということである。
 一般的な感謝の意を表するのであれば、感謝状を贈るとか、たまたま弘前市へ行ったついでに参拝したとか、一回限りのことで済むと思われる。この行為には台湾政府にとって特別な意味があると見なければならない。それは一体何なのか具体的には不明であるが、この行為の裏側には、表明できない重大な秘密が隠されていると思う。それは、蒋介石が共産軍に敗れ、勢力を挽回する可能性が無くなった頃から台湾に渡るまでの時期にあったはずである。
 
 五、六、七については、前述したとおり純三郎と蒋介石の関係から見ると至極当然のように思われる。
 八について、蒋介石は「恨みは徳をもって報いる」と言って日本軍属220万人を本国へ帰還させた。まさに感謝、感謝である。
ここで気になることが一つある。南京大虐殺の事件である。南京市にある記念館によれば、日本軍が一般市民30万人を虐殺したとある。これが事実だとしたら、蒋介石がたとえ許したとしても国民は許さないのではないかという疑問である。それから、当時の記録を見ると南京市民は20万人となっていること。それがどうして30万人に膨れたのか。また、当時は欧米を中心とした公使館が南京にあり、各国の特派員も常駐していたが、なぜ大量虐殺のことを本国へ通報しなかったのか。事実はどうなのか不明であるが、私の単純な疑問である。
 次に、九であるが、蒋介石は大戦後の日本処理案の一つである日本分割統治案を何故に潰したかということである。
 この時代は、弱肉強食の時代、敗戦国は多大な賠償金を取られるか植民地にされるという当たり前の時代であった。
 戦勝国となったアメリカ、ロシア、イギリス、中国は日本を自由にできる立場にいた。戦利品として領土や賠償金を要求することが当然の世界でもあった。
 ロシアは戦略上必要な不凍港を求めており、樺太や千島4島だけでなく、北海道、東北地方も狙っていた。日本はもはや草刈り場、早い者勝ち、ぶんどり合戦の状況にあった。
 しかし、中国代表の蒋介石は真っ先に反対し、分割案そのものを潰してしまったのである。その真意は一体何処にあったのだろうか。蒋介石は日本国をそこまで思っていたのだろうか。蒋介石の正義感からなのか、孫文の東洋平和論思想の影響なのかも知れないが、私はこの蒋介石の言動に山田純三郎の影を見ている。中国の国益を放棄させてまでも反対させた人物がいたのである。いずれにしても、日本国にとっては神風が吹いたのである。
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2007年03月01日

謎の遺跡紀行『孫文と蒋介石の碑』(七)       〓孫文と蒋介石を支えた津軽の武人〓

 一から解ることは、純三郎は孫文の厚い信頼関係にあり、側近中の側近であったこと。それからもう一つは、孫文の後継者となった蒋介石よりも上席に位置していたと推察できる。
 二からは、孫文と共に培った27年間の人脈とその実力は想像を絶するぐらい巨大であったと考えられること。 
三からは蒋介石と個人的にも非常に強い信頼関係で結ばれていたということ。
 四からは台湾政府の国家行事として、山田家の墓を礼拝していたということ。
 この三及び四から推察できることが二つ考えられる。
 その一つは、孫文の後継者に蒋介石が選ばれた過程において、純三郎が深く関与したのではないかということである。孫文の死により、当然のごとく後継者をめぐる権力闘争があった。このような権力闘争おいては、偶然勝利することは決してあり得ない。権謀術数の限りを尽くし、仕掛けた者、多くを企んだ者が勝利を収める。これは歴史の法則である。
 蒋介石は能力・実力共に十分にあつたと思うが、それだけでトップになれるわけではない。本人以外で、かなりの実力のある人物が、しっかりと影で根回した結果に他ならない。その人物は山田純三郎ではないかと私は見ている。
 人が死ぬと(あるもの)が亡くなる、お隠れになる、旅立つ、あの世へ行く、見取る、息を引き取るとも表現する。
 純三郎は、側近として同志として孫文を見取り、息を引き取った。それは孫文の志をも引き取ったのだと思う。
 純三郎は、兄の志を継ぎ、孫文の志をも継いだ。しかし、残念ながら、彼は日本人である。孫文の後継者にはなれない。側近実力者として彼ができることは、孫文の志を継ぐべく立派な人物を指名することである。彼には、それを遂行する資格と実力があった。そして、彼は決して表面に出ることはなく、慎重かつ冷静に進めたと思う。
 その結果、純三郎には弟分にあたる蒋介石を選び、総統の地位につけた。だから、蒋介石は、自分のために水面下で尽力した純三郎のことを深く心に刻み、後に「永懐風義」という言葉を贈ったと私は考える。
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2007年02月15日

謎の遺跡紀行『孫文と蒋介石の碑』(六)       〓孫文と蒋介石を支えた津軽の武人〓

 一、孫文が肝臓ガンで亡くなるまで、27年間に渡り行動を共にした。入院中、病室に出入りできたのは、宋夫人、王兆銘と純三郎の三人だけだった。 
 二、終戦直後、佐藤慎一郎(純三郎の甥、後に亜細亜大学学長)が戦犯として奉天の牢獄に捕らわれて、死刑の判決をうけていたが、純三郎が湯温伯将軍に掛け合ったところ、直ちに釈放された。
 三、孫文の後継者となった蒋介石は、後に純三郎の死を悼んで『永懐風義』(貴方の真心は永遠に忘れない。)と詠んだ書を残しており、1976年に建立された純三郎の石碑に刻まれ、今も、弘前市の貞昌寺に兄・良政の石碑と並んで残っている。
 四、中華民国台湾の駐日大使が、着任・退任の都度、この墓に必ず礼拝し献花していた。
 五、1997年、台湾政府は貞昌寺に日華友好の功績をたたえ感謝状を贈った。
 六、終戦後、青森県の無医村地域へ台湾出身の医師が多数入って来て、医療活動を行った。当時、台湾では権力闘争が続いたため、避難してきたのかもしれないが、それにしてもなぜ青森県なのか、ここに山田純三郎の影が見え隠れしている。
 七、終戦後、台湾は青森りんごをたくさん輸入してくれた。このため、疲弊していた青森県経済が大いに救われた。
 八、終戦後、中国残留の日本兵士を本土に帰すに当たり、蒋介石はリュックいっぱいの米と旅費を持たせたという。ロシアの扱いと雲泥の差があった。
 九、最も大きな疑問は、終戦直後に、日本は何をするか分からない危険な民族だから分轄統治すべきだという『日本分割統治案』があったが、蒋介石はこれに猛反対しこの計画を潰してしまったという。
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2007年01月11日

謎の遺跡紀行『孫文と蒋介石の碑』(五)       〓孫文と蒋介石を支えた津軽の武人〓

弟・純三郎は兄の訃報を上海で聞き、兄の志(東洋の平和思想)を継ぐために立ち上り、実に27年間に渡り孫文の片腕として活躍した。しかし、何をなしたかと言う歴史的証拠は残念ながら全くと言っていいほど見あたらない。
 歴史には偶然という産物も多々あるが、歴史を検証する場合は、ある事件や事実の背景を探り、どのようにしてその事件が起きてどのように終結し、その後どのようになり、何が残ったかをしっかり検証しなければ真実は見えてこないものである。
 しかし、山田純三郎の事跡を探る場合は、余りにも資料が残っていないため、この方程式が当てはまらないが、次の事実関係から歴史の真実を探ってみたい。

posted by タボ様 at 09:41| 青森 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月10日

謎の遺跡紀行『孫文と蒋介石の碑』(四)       〓孫文と蒋介石を支えた津軽の武人〓

 山田良政も津軽藩士の子である。『日本人である』と清朝軍に名乗れば助かるということが解っていたからこそ逆に言えなかったと思う。死を恐れて命乞いをしたと思われることが何よりもつらい屈辱であった。
 武人たる者は、負ければ死ねばよい、失敗すれば死ねばよい、潔く死のうと決断したに違いない。良政はこのような覚悟で処刑されたと思う。
 この良政の死に対する孫文の悲しみと落胆は、非常に大きかったと伝えられている。
 孫文は、『支那全国民を代表して感謝したい。』、良政の父・浩蔵氏に対しては『如吾父』と述べている。これは、一外国人に対する単なる友情からでた言葉ではなく、また、革命家同志としてだけの関係でもないような気がする。そこには人間としてのもっと根源に係わる強力な絆があったのではないかと思う。
 良政の人生において、大きな影響を与えた人物がいた。その人は、明治言論界の雄・陸羯南(1857〜1907年、本名:中田実)である。

  名山名士を出だす   此語久しく相伝う
   試みに問う厳城下   誰人か天下の賢

 この詩の石碑は、弘前市の郊外に今もある。
 羯南については詳しく触れないが、彼の生き様を見ると間違いなく『徳』、『仁』、『義』の人である。良政は羯南の生家の真向かいで生まれ育っており、羯南の薫陶を受け、思想的にも影響を最も濃厚に受けたと思われる。
 「良政よ立て!志を持て!おまえが立たないで誰が立つのか、誰が国を護るのか!」と。しかしながら、良政は志半ばにして旅立ってしまった。
posted by タボ様 at 09:44| 青森 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月09日

謎の遺跡紀行『孫文と蒋介石の碑』(三)       〓孫文と蒋介石を支えた津軽の武人〓

 かつて、日本には武士道精神が培われていた。その極めつけが葉隠れの思想であり、「武士道とは死ぬことなり」で知られている。その根本にある思想は「義」であり、義のためには命を惜しまず捨てるということである。
 『義』とは、道理であり、人間が行うべき筋道を意味する。また、利害を捨てて道理に従い、公共のためにつくす者を義士とも言い、武士とは義士でなければならないという思想である。
 『信義』と言う言葉があるが、この場合の『義』とは藩主が家臣に対して正しい命令を発することであり、『信』とは欺かないという意であり、その正しい命令を家臣が忠実に履行することである。もし、正しい命令が発せられなかった場合は、家臣たる武士はどうするか。
 ここに武人(もののふ)としての覚悟と本質が問われることとなる。この場合、家臣は藩主に対して敢然と立ち上り諌言を申し上げなければならないと言う。
 その結果として、藩主の逆鱗に触れ、切腹を申し付けられるか、又は、改易処分となり浪人することになる。これが武人としての本懐だと説いている。
 武士たるものは、「義」のためには死を恐れず、私利私欲にとらわれず、一瞬のうちに死を覚悟し、死人(しびと)としての心構えにならなければならないという。このため、武士の子として生まれた場合、物心ついた幼少の頃から死人としての訓練を徹底的に行う。
 最初は、その心構えとして心の下作りをおこなう。毎朝、起きる前に、壮絶に戦って斬り死にするというイメージトレーニングを成人になるまで行う。言うまでもなく、剣術についても徹底して鍛えられる。
 そのようにして成人した武士は、いざ事が起きた場合、生きながらにして一瞬のうちに死人と化するため、己の死すら眼中になく、もちろん私利私欲も全く考えることもなく、最善の判断を下し、直ちに実行できる人間になると言う。
 幕末の頃、佐賀鍋島藩で軍事調練を行った際、藩主が藩士に対して、「本日の調練は戦場に臨んだつもりでしっかりやるように、遅れたり、混乱させたり、不始末を犯したりした者は切腹を命ずる。」と訓辞したところ、藩士は藩主の命に誰一人として従わなかったという。そして藩士は一斉に藩主を目掛けて走り出し、殿の御前で『早く切腹を命じて下さい。』と叫んだ。藩主がその訳をただすと『武士たる者、死を恐れて殿に服従したと思われるのは非常に心外である』と。
 当時の武家社会においては、死を恐れることは最も恥ずかしいことであった。
posted by タボ様 at 14:10| 青森 曇り| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月27日

謎の遺跡紀行『孫文と蒋介石の碑』(二)       〓孫文と蒋介石を支えた津軽の武人〓

 孫文はこの死を非常に悲しみ自ら筆をとり追悼文を残している。その追悼文は、山田家の菩提寺である貞昌寺(弘前市)の墓に刻まれており、アジア全体の平和を熱望した良政氏の志を讃え、次のような内容となっている。
 『山田良政先生は弘前の人なり。康子閏八月、革命軍恵州に起つ。君身を挺して義に赴き、遂に戦死す。鳴呼、其人道之犠牲、アジアの先覚たり。身はいん滅すといえども、其の志は朽ちず。』
 弘前での良政葬儀にあたっては、孫文は参列できず代理を参列させており、又、孫文の追悼文を刻んだ「碑」の除幕式には側近の陳仲孚氏を代理出席させている。
 なお、それから二十数年後の1927年11月4日、中国国民党により山田良政の碑が孫文の眠る南京の中山陵に建立されている。
 先に、戦死と記載したが、真実は清朝軍の捕虜となり処刑されたのである。その時、良政は日本人であることを明言すれば助命されることを知りつつも、最後までそれを否定し中国人として 処刑されている。
 それは武人としての潔さだったのだろうか。
posted by タボ様 at 14:53| 青森 雨| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月25日

謎の遺跡紀行『孫文と蒋介石の碑』(一)       〓孫文と蒋介石を支えた津軽の武人〓

 北辺の地・津軽出身の山田良政、純三郎兄弟は、中国の革命家・孫文らと共に大いに活躍したと言う。
 この兄弟には、歴史的な記録も余り残っておらず断片的な言い伝えしかない。しかし、彼らが、孫文や蒋介石を頂点とする当時の中国の指導者たちから、厚い信頼を得ていたということは間違いのない事実と思われる。それは山田兄弟の墓に刻まれている碑文や愛知大学東亜同文書院記念センターの資料等からも伺い知ることができる。
時代が激動する時には、そこには必ず歴史の寵児(英雄)が登場する。その歴史の舞台では、その寵児と一体となり、又は寵児を操るブレーンが存在するという。そのブレーンとなる人物は時代の寵児に影のごとく付き従い、ある時は頭脳となり権謀術数の限りを尽くし、ある時は黒幕的存在として活躍する。 そして、舞台の幕が降りると歴史には決して名を止めることもなく去ってゆく。
 孫文や蒋介石のブレーンは、この山田兄弟だったのではなかろうか。
 兄・良政は、1868年に津軽藩士である山田浩蔵の息子として弘前に生まれ、東奥義塾、東京水産学校を経て、北海道昆布会社の社員として上海に勤務した。後に、日清戦争で従軍通訳として働き、1899年、32歳の時に辛亥革命の指導者である孫文と出会い、その思想に共鳴し革命に身を投じた。その翌年、「三多祝の戦」で清朝軍と戦い、志半ばで戦死してしまった。
posted by タボ様 at 15:15| 青森 晴れ| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月25日

謎の遺跡紀行『日本中央の碑』(終)

 江戸時代に書かれた『東遊記』には、「壺の石文は奥羽仙台の東北にある多賀城の古跡(宮城県多賀城市)にあり」と記載されていることから、壺の石文は青森県ではなく宮城県であるという説がある。

 さらに、俳聖・松尾芭蕉も壺の石文を見る目的で旅立ち、多賀城の碑をもって目的を達したとされたことや田村麻呂将軍が青森県まで行ったと記録にないことを根拠に、壺の石文=多賀城説としている。

 しかし、次の事由により、壺の石文は疑いの余地もないほど明らかに青森県東北町に存在している碑が本物である。

 ●歌人・藤原顕昭の『袖中抄』には、《碑の中央に「日本中央」と書かれている》と記載されていること。多賀城の碑にはない。

 ●前述した歌には、青森県の地名である「つがろ(つがる)」や「外ヶ浜」が見られること。

 ●近くの千曳(ちびき)神社には、壺の石文に関わる田村麻呂伝説が今も残っていること。

 ●この碑が発見されたあたりを明治時代まで、「坪村」、「石文村」と呼んでいたこと。また、近くを流れる川には、今でも「小坪川」と「大坪川」があり、近くの六戸町には坪毛沢というところもある。

 ●明治時代に天皇の東北巡幸にあたり、壺の石文の調査は、東北町のこの地域だけであったこと。

 ●この壺の石文の近くには、森ヶ沢遺跡という五世紀以降の蝦夷の大集落跡が発見されていること。

 余談であるが、「ねぶた」の起源について考えてみたい。

 田村麻呂将軍が蝦夷をおびき出すために作ったという説、津軽藩主が盂蘭盆会に大燈籠を作ったのが始まりとする説、けがれを払う「ねむり流し」という風習(?)から、ネムイ→ ネムタイ → ネプティ→ ネプタ、ネブタと訛って現在に至ったという説がある。
 
 かつて、「ねぶた」を練武多という当て字を使って表していた。これは「武を沢山練る」、「軍事調練を沢山実施した」という意味である。

 運動会で行う騎馬戦のようにかついだ燈籠(ねぶた)を奪い合う軍事調練がねぶたの起源のような気がする。だから、出陣ねぶたとか凱旋ねぶたと言われるのではないか。

 また、太鼓を叩くのは兵士の志気を奮い立たせることを目的にしたとは考えられないだろうか。鼓舞するとはこういうことだろうと思う。東北に残る三叉踊りや鬼剣舞などの郷土芸能はいずれも鼓舞することを目的にしていた祭りである。

 いずれの説が正しいか解らないが、訛ってどうのこうのとか言う説にだけは賛成できない。

 同じような例として、郷土料理に「けの汁」がある。「け」とは津軽弁で食べなさいという意味であるが、「食えが訛ってけ」、「粥 が訛ってけ」という説がある。「けの汁」は女の小正月に食べることから、晴れの日に対して褻(け)の日に食べる料理という意味ではないかと思っている。

 また、伊勢神宮の外宮に祭られ食糧の神である豊受大神の別名は、御饌津(みけつ)神といい、御は尊称、饌(け) は食べ物、津は助詞であることから、けは古代において食べ物という意味であったことが解る。

 青森県の先人達の使った言葉にはそれなりに深い意味があったと思う。それを安易に語呂合わせのように、訛ってどうのこうのと言う屁理屈をつけたような解釈だけは避けたと思います。

(トッツバレ)
posted by タボ様 at 14:02| 青森 曇り| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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